Rein’s blog

フィギュアスケートに関する英語記事の和訳を中心に載せています。無断転載はおやめください。

The Endless Slope(Jan.24.2018)

Inside Skatingさんが宮原知子選手について語った記事の訳です。

 

原文

t.co

 

 

例えば、あなたがこの数年で世界のトップに成長したアスリートだとしよう。そして、その後に数々の怪我に見舞われて10ヶ月間も基礎練習を貫くことを余儀なくされてしまう。あなたは何年も夢見たオリンピックまでの日にちをカウントダウンしている。そして、あなたのコーチは「何も焦る必要はないの。次のオリンピックまでなら、5年もあるでしょう。5年後に備えればいいじゃない」とあなたを諭した。その言葉は、未だかつてないほどの悪夢になりえてしまうのではないだろうか?
そのアスリートは、平昌オリンピックまで残すところ4ヶ月、という時期の宮原知子だった。
(Wei Xiongより)


彼女の怪我との戦いは、昨年の1月にさかのぼる。グランプリファイナルで銀メダルを獲得し、全日本選手権で圧倒的な3連覇を飾った直後のことであった。誰もが今シーズンは格別な年になるだろうと思っていたが、宮原は左股関節の疲労骨折と診断された。そして、2月の四大陸選手権ならびに冬季アジア大会の欠場、更に4週間の安静をせざるを得なくなってしまった。しかしながら、この長期間の痛みは3月に入っても消えることがなかった。全日本女王は世界選手権の棄権をも発表し、1ヶ月間のJISSでのリハビリを決意した。しかし、彼女は5月にやっと氷上での練習を再開したがまた不幸の連続に襲われた。左足首の捻挫、骨の打撲傷、右腰の炎症そして体調不良などだ。これらは宮原を練習から遠ざけてしまった。

そしてやっと彼女が再び氷上練習に戻ったとき、怪我の悪化を防ぐため1日わずか10本まで、というジャンプの制限をした。「確かに、少し不安はありました」宮原は12月に行われたGPファイナルの会見でそう話した。
「でも私はリハビリ期間を思い出すんです。JISSにはたくさんの他競技の選手たちがいました。そこにいたアスリートの皆さんは私よりもずっとひどい怪我をしていたんです。例えば、ある選手は歩くことさえできなかったんです。でも皆さんはとてもポジティブで、怪我の回復に努めていました。そのことは、私にこう考えさせました、『自分のことを哀れに思う理由なんてない。絶対に、諦めない』と。私はこの経験に希望をもらいましたし、ポジティブになりました」
ジャンプの練習ができない日々も、宮原はその時間をスケーティング技術や演技の質を高めるに適した時間と捉えた。「ジャンプだけを抜いた通し練習を何度も何度もしたんです。特にスケーティングに注意を払って、ステップやスピンの精度も高めました」
「それから、表現力を上げるためバレエの先生に教えを請うこともありました」
宮原はそう続けた。
「先生は、細かい部分にまで手足を使う方法を教えてくれました。体の動きだけでわずかな感情の起伏を表現することについても、アドバイスを下さいました」

The Talk
まだ19歳の宮原とその周りの人々ができる限りポジティブにそして辛抱強くリハビリやトレーニングを積んでいる傍ら、時間は刻々と迫っていた。彼女の回復はすんなりとは行かず、またもやフィンランディア杯を欠場することになった。ちょうど同じ頃、10月はじめに行われたロンバルディア杯では、GPファイナルや国内選手権に向けての戦いの火蓋が切られた。そのとき、宮原知子が師事している濱田美栄コーチが彼女にあることを話すことを決めたようだった。
「今すごく苦しいでしょ。全日本へ向けてじっくり準備をしていきたいところだけれど、まだジャンプ制限をしなちゃいけないもの」
濱田コーチがそう言うと、宮原の瞳に涙が浮かんだ。10月のある日、濱田コーチは宮原にひとつ質問をしたのだ。
「あなたは今シーズンでスケートをやめるつもりなの?」
宮原はやめません、と答えた。濱田コーチはそんな宮原に続けてこう言った。
「来季以降もまだ続けるつもりがあるなら、あなたにはまだ5年もあるでしょ?だって次のオリンピックまでには5年もあるじゃない。だから焦らずゆっくり治して、また練習していけばいい」

とても衝撃的で恐ろしいように聞こえた濱田コーチの言葉だが、これは宮原にモチベーションを与えるためだった。この話のあと、宮原は実に劇的でいわば奇跡的な回復を遂げた。10月半ば、彼女はすぐにジャンプの練習に取り掛かった。日ごとに、ジャンプの質が上がっていく。そして、11月にはジャンプを入れてのかなりレベルの高い通し練習をやり遂げた。
「昨シーズンのように、完璧な通し練習ができるわけじゃないけれど、どんどん良くなっているし自信を持ってジャンプが跳べるようになりました」
宮原はそう語った。
「宮原さん、あなたはオリンピックに行くのに5年も必要ないと、コーチが間違っていると証明したかったのですか?」
ある記者がそんなふうに尋ねた。
「いいえ、私はコーチの間違いを指摘したかったのではありません」
宮原はきっぱりと答えた。「私たちは、平昌オリンピックへの道を諦めたことは一度もありませんでした。濱田先生がおっしゃったのは、『あなたはまだ若いし、まだまだ改善するところもたくさんある。5年もあれば、更に良いスケーターになれるし、次のオリンピックで成熟した大人の演技を見せることだってできる。平昌以外にもチャンスはあるはず』ということです。先生は、私を元気づけようとしてくれたんです。そのおかげで、私はベストを尽くそう、とモチベーションが上がりました」

回復の経過を見て、宮原とそのチームはアサインされていたGPシリーズ第4戦のNHK杯への出場を決めた。11月10日から12日にかけて行われたNHK杯は結果としてはあまり上手く行かなかった。回転不足の判定や2回転に抜けてしまったことで、総合成績は5位に終わった。しかし、追って開催された第6戦のスケートアメリカではサプライズが待っていた。宮原はSP、フリーともに1位となり金メダルを手にしたのだ。この演技でさえも、彼女のベストというわけではなかったが、それでも宮原は満足していた。
「さて最後に、私は全日本選手権で持てる力100%の演技をしたいと思っています。大会を通して、だんだんと調子を上げて演技の質を高めたいです。なので、NHK杯の前には、私は70%で十分だと言ったんです。そしてこのスケートアメリカでは80%の力を出し切ることができて、とても嬉しく思っています」

驚くべきことに、GPファイナルからエフゲニア・メドベージェワが棄権したため、第1補欠であった宮原が繰り上がったのだ。
「今回は、92%出し切るつもりです。優勝したいとか、そういったことは一切考えていませんが、クリーンなプログラムを2つ揃えたいと思っています」
彼女はファイナルが始まる直前の会見でそう話した。

SPでは、彼女が期待した通りの結果になった。映画SAYURIサウンドトラックに乗せて、昨季の銀メダリストらしい演技を見せた。全ての要素で加点を引き出し、PBに迫る74.61を叩き出した。
その反面、フリーにはいくつか課題が見られた。3Lz3Tのコンボと続く3Fでは回転不足と着氷の堪えがあった。それでもなお、蝶々夫人は見事立て直して見せた。宮原は力強く滑り、プログラム後半のジャンプを降りた。名古屋の観客は彼女をスタンディングオベーションで讃え、「おかえり!」と叫んだのだ。
「とても有名なオペラですから、皆さんも蝶々夫人の物語を知っていると思います」宮原はそう述べた。
「私は物語の中で移り変わる感情を自分なりに解釈して、自分らしいスケートをすることができたと思っています」

 

The Endless Slope
結果としては5位に終わり、準優勝であった昨季に比べれば良くはなかった。しかし宮原は、この大会を通して自信がついたのだと言う。
「SPはスケートアメリカよりも良い演技ができましたし、試合の感覚を取り戻すこともできました。フリーはベストではなかったけれど、悪くもありませんでした。90%は出し切れましたし、より自信もつきました。この思いを全日本でぶつけたいです。」
同じ頃、彼女はベストを出すことだけではとても十分ではないとも言った。
「どの選手も全日本に照準を合わせて来ます。全日本はとても激しい選考会になるはずです。なので、周りの選手に追いつけるよう、自分のレベルを引き上げていく必要があります」

そして、彼女は有言実行を果たした。3週間後に開かれた全日本選手権で、ディフェンディングチャンピオンはほとんど完璧に近い演技を見せたのだ。宮原の出した220.39は全日本選手権史上最高点を記録することとなった。疑うことなく宮原知子は日本の平昌オリンピック代表に確定し、五輪出場の夢を実現させた。
フリー演技後、宮原と濱田コーチはキス&クライで抱き合い、涙を止めることができなかった。宮原が滑るリンクのそばで、濱田コーチは彼女の演技に感極まったことを後に会見で語った。
「私はいつも、知子の状態は良い、とメディアの皆さんに話して来ました。でも、実際は皆さんが想像するより遥かに知子が心配だったんです。それでも、知子は最後まで立派に戦いました」
「今シーズンは常に登り続けなければならない、まるで終わりなき登り坂のようでした」
濱田コーチは続けた。
「でも、知子はひとつの弱音さえ吐くことなく努力し続けたんです。私はコーチであるけれど、知子に多くのことを学びました。彼女が私たちを導いてくれたんです。私は知子に初めて会った日のことをまだ覚えていますが、いつかオリンピックに代表になるなんて思ってもみませんでした。知子の努力が報われたことを本当に嬉しく思います」
しかし、オリンピック出場権の獲得は4連覇を果たした全日本女王にとっての最終的なゴールではないだろう。
「この全日本の表彰台に立てたとき、私は自分にこう言い聞かせました。『ついにここまで来た。やっと出発点だ』と」
宮原は会見でそう述べた。
私たちは、この小さいけれど非常に芯の強い19歳の宮原知子が新たな旅で待ち受けるものと出会うのを待ちきれないのだ。

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深夜に訳していたのも手伝ってか、涙が止まらなくなってしまいました。怪我が重なって、先の見えないトンネルにひとりぼっち。他の選手たちが活躍している中、知子ちゃんはジャンプの練習すらできず。

この状況で、決して下を向かずに努力を重ねることはどれだけ大変だったのでしょうか。想像すらできません。

平昌オリンピック、応援しています。知子ちゃんの思い描くスケートができますように。

 

誤訳ならびに誤字脱字等ございましたら申し訳ございません。早急に書き直させて頂きます。最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。

Rein  @Icyblossoms